いつもタイの夜遊び記事ばかりのふざけたこの低俗ブログ。
日曜日のサンデーモーニング的なのりで、たまにはシリアスな世界の時事トピックでも取り上げてみようと思う。
興味のない方はここでページを閉じていただければ幸いである。
あれは僕の学生時代に遡る。
僕にはN君という名の友人がいた。
彼はとにかく女性の脚が大好きだった。
一緒に歩いていると、
「JAK君!!左の方からすごいシーアーがこっちに向かって歩いてきます!!」
「あそこにいる白いワンピースの子のシーアーやばいです!」
たとえ話途中であっても綺麗な脚の女の子を発見すると、このようにN君は話を遮った。
彼が女性の脚の事をシーアーと表現するのは、他の人に卑猥な話をしていると悟られないための彼なりの工夫である。
彼に影響され、僕も女性の脚に特段に注目するようになった。
いつもシーアー、シーアーと女性の脚の話ばかりしていた僕らは、いつしか周りの友人達からシーア派と呼ばれるようになった。
「やっぱり、シーアーをガチ出しした子が1人でもいるとテンション上がりますわ。」
僕らは女の子がシーアーをガチ出しする夏が大好きだった。
N君は言った。
「いつかSランクのシーアーをもつ子を彼女にして、Sランクのシーアーを思いのままに堪能するのが夢ですわ」と。
社会人になって、N君は狂ったようにコンパをセッティングしはじめた。
コンパの後で男だけで近くのラーメン屋に入り、その日来てくれた女の子のシーアーについて語り合う。
それはシーア派集会と呼ばれた。
そんなある日、N君はSランクのシーアーを持つ女の子と出会い、付き合うことに成功した。
その子は証券会社のOLさんであったものの、学生の頃にはローカルなテーマパークやスーパーの服の広告のチラシなどのちょっとしたモデルをしており、スラッと伸びる細くて綺麗な脚が魅力的だった。
N君は長年の夢を叶えたと有頂天だった。
その後もシーア派集会は続けられたが、N君のシーアーに対する発言は情熱を失っていった。
その時はSランクシーアーの彼女も出来たため、ハングリー精神を失ったためかとも思われたが
ある時、シーア派集会でS君がこんな発言をした
「シーアーは見ることが全てであってそれ以上の発展可能性がありませんわ。」
「ベットの上でもシーアーが綺麗だからといって特別に何かできるわけでもありませんし、手でスリスリ触っても、で何?って感じだし。。。」
「見るにしても、そもそも彼女にして隣で歩いてたらシーアー良く見えないし。。。」
「その点、ネームー(胸)はいいですよ。」
「見て良し!触って良し!そしてベットでも無限の発展可能性」
「そして、見るから先は彼氏だからこその特典だからね。」
学生時代から長年ともにシーア派を歩み続けてきたN君が異教徒となった瞬間だった。
彼は現実を知ったのだ。
彼は女体に実益を求めるようになったのである。
それ以降も集会は続けられたが、N君の発言に影響を受け、シーア派の仲間達は徐々にシーアーへのこだわりを失っていった。
そして皆それぞれの信仰を見出し、それぞれの道を歩み出した。
それでも僕はシーアーへの信仰を捨てられなかった。
シーア派は僕1人になってしまった。
1000年の孤独
時は経ち、
僕は友人とタイに行く機会に恵まれた。
驚いたのはタイガーのシーアーの美しさ。
街中でも多くのタイガーが果敢にシーアーをガチ出し。
美しい!
細くまっすぐ、しかし適度な柔らかさを備えた神々しいシーアー達がそこには生息していた。
シーアーパラダイス
まさにシーア派の聖地がそこには広がっていたのだ。
敬虔なシーアー信仰者の僕は移住を決断。
するとどうだろう。
この地で出会う多くの方が、同じくシーアー信仰者であった。
彼らと語らう時、彼らのシーアーへの情熱が自ずと伝わってきた。
僕は遠く異国の地でようやく自分の居場所を見つけた気がした。
1000年の孤独から解放された瞬間であった。
しかしそんな薔薇色の時代も長くは続かない。
元は同じシーアーを信仰する者同士であった者達との間に見解の相違が生まれはじめた。
シーア派がシンメトリックで神々しいシーアーと、そしてそれに繋がるプリケツのフォルムの美しさのみを、ただただ追求する教義の宗派であるのに対し、
それに異を唱える者達が現れはじめたのだ。
彼等の主張はこうだ。
なぜそもそもシーアーの美を追求するのか?
それすなわち、シーアーはプリケツと密接な繋がりがあり、シーアーが美しいという事は美しいプリケツをもつという事が推測されるためだ。
では、なぜ美しいプリケツを求めるのか?
それすなわち、プリケツとホイには密接な関わりがあり、美しいプリケツを持つという事は素晴らしいホイを持つという事が推測されるためだ。
では、その素晴らしいホイの要件とは何なのか?
それすなわち、締まり、匂い、感度、ツユの量、ツユの質、奥行、外部の形状、内部の形状、その他全52項目である。
ではそのホイの52項目全ての総合的評価を推測するためにシーアーの美を追求するということか。
なんと周りくどい。
なぜ直接ホイをテイスティングしない。
ワインだってラベルを見ただけではその価値は判断できない。
ホイだって同じである。
テイスティングして始めてその価値がわかるものだ。
ホイのテイスティングこそが全てだ!
ホイのテイスティングこそが絶対的な教義の中心に据えられるべき神聖な行為なのだと。
彼等はそう主張する。
そんな彼等はクンニ派と呼ばれた。
筋の通っている合理的なクンニ派の主張。
しかし、シーア派は反論する。
ではあの美しいシーアーを見た時の、胸にこみ上げてくる圧倒的な感動はなんだ。
あれもまやかしだというのか。
どうして心で感じたものを、素直にありのままに評価できない。
なぜなぜなぜなぜって車でも作ってるつもりか
なぜ?を何度も重ねることでいつしか失われる大切なものだってあるのではないか。
子供の頃から飼っていた犬が死にました。
私は泣きました。
なぜ?なぜ?なぜ?
どのまで潜っていっても自分の気持ちを代弁する言葉なんて見つからない。
そこになぜ?なんて問答は不要なのである。
同様に、美しいシーアーを見て感動する。そこになぜという問答が必要なのか。
クンニ派達は夢の先を見過ぎなのだ。
リアリズムを追求しロマンチズムを失っているのである。
車はそれでもいい。
でも女体にはロマンを失ってしまってはダメだろうと。
どちらも自分達こそが正しいと確信しており、シーア派とクンニ派の対立は深まるばかり。
終わりの見えない宗派対立。
誰も争いなどに巻き込まれたくない。
しかし私たちは容赦なく世界から今問われる。
あなたはシーア派?
それともクンニ派?
それとも。。。
(終)
1. 無題
私はシーア派ではないですが、一般的に言ってタイガーのシーアーは見事だと思います。